ユヤイヤコの少女

二

チャスカはようやく帰ってきた。
切妻屋根の小さな藁葺の家。それが少女たちの暮らしている住居だ。家の壁は石と泥を固めて作った日干しレンガで組まれている。入り口にはリャマの毛で織られた大きな厚布（チュシ）が掛かっていた。色とりどりの毛糸で抜き出された細密な紋様が山の風に静かに揺れている。チュシの図柄を見れば、一族の出身地や地位などが一目でわかるようになっている。黄色と緑の鮮やかな格子模様の終端に、赤と黒の六本の横縞が交互に織り綴られているそれが、チャスカの家に代々伝わる「紋章」だった。
チャスカはチュシに額をなでられて家の中に入った。チュシに遮られた部屋はひんやりとして薄暗く、少女の体温がわずかにその部屋を暖めたにすぎなかった。
奥の壁に、丈夫なリュウゼツランを編んで作った簡素な毛織機が吊るされ、編みかけの織物がそのままになって放置されている。ついさっきまでチャスカが使っていたものだ。チャスカはそれを、つぎのパパ（ジャガイモ）が新芽を吹き出す前に織り上げなければならなかった。チャスカや村の女たちが織り上げたリクリャ（ショール）と衣服は、それぞれの家族が属している村の共同体「アイユ」ごとにまとめられて、租税として、ティルカラの町の倉庫（コルカ）に送られることになっていた。コルカには、キープという紐文字を読むことのできる専門の役人キープ・カマヨが常駐しており、キープに記された計画どおり、その年の作物や衣服などが、子供から老人にいたるまで、帝国内に居住している住民一人残らず平等に分配されるしくみだった。しかし、一部の上等な織物だけは、町のアクリャワシに住む「太陽の処女」たちが、主である皇帝「インカ」のためにビクーニャの毛糸を使って織り上げていた。
土間の床には、リャマの乾燥肉、ピーマン、インゲン豆、サラにカボチャといった野菜類や、それらをすり潰すための平たい石臼（バタン）が並べられている。土を盛って作られた竈に火の気はなく、すっかり冷え切っていた。
泥壁の方形のくぼみに、二体の小さな神像が祭られてあった。大地の女神パチャ・ママと、チャスカのコノパだった。パチャ・ママは、太陽神インティよりもずっと昔から農民たちに信仰されている地母神で、いっぽうのコノパは、人間が産まれたときにひとりひとりに定められる守護神であり、コノパは人それぞれによって姿かたちも様々に異なっていた。チャスカのコノパは、月と同じ「銀」でできていた。それは彼女がまだ幼いときに、遠いインカの都クスコから贈られてきたものだった。

――やあ。
土間と奥の部屋を隔てている飾り気のないチュシの前で足を止めたとき、かつて、その小部屋にいた少年が人懐っこい笑顔を見せた。
「兄」はたいてい、その小部屋で棍棒の刃を磨いていた。棍棒に使う石は、チャスカの父が「ユヤイヤコ山」に巡礼に出かけたときに拾ってきたものだ。ユヤイヤコは、チャスカの住む谷からひと月あまりも歩いた、北西の山奥にあった。

……「ねえ、それはなんなの？」
二年前のある日、チャスカは兄に聞いた。
「なんだ、知らないのか？」兄のトパは、星型に削られた石の刃を見て言った。「戦士の使う武器だよ」
チャスカは石の棍棒を見た。腕の長さほどの棒の先に、六つに分かれた鋭い刃が突き出したそれは、朝一番に東の空に輝く「チャスコ・コイユル」の瞬きのようにも見えた。
「その棍棒をどうするつもり？」
チャスカは恐ろしくなった。
「決まってるじゃないか。リャマでも殺せっていうのかい？」白い歯を覗かせたトパは屈託もなく笑った。その笑顔は、無邪気な少年そのものだった。
「俺はな、チャスカ。アウカになろうと思っているんだ」
「アウカ（戦士）に？」
「そうさ。これはそのための武器さ」そう言うとトパは、作りかけの棍棒を右手に握って、目に見えない透明な相手を殴りつける素振りをした。毎日の農作業で鍛え上げられた兄の腕は、妹のチャスカでさえ、うっとりするくらい逞しくて美しかった。
「成人したら、俺はクスコへ行く」
それから、兄のトパは「トゥパック」という大人の名前をもらい、手製の棍棒を持ってインカの都に旅立っていった。

……チャスカはリャマの匂いで目が覚めた。いつのまにか厩の中で眠ってしまったらしい。
台形の窓から差し込んだ日の光が部屋の床を同じ形に切り取っていた。厩に敷き詰められた干し草は太陽の光で十分に温められ、天然の草の蒲団はアルパカの毛皮のようにふわふわして心地よかった。
――クイの奴、きっと死んでしまったんだわ。
チャスカは、さっきまでの自分を思い出し、お腹に手を当てた。
床のあちこちに、ふさふさした毛球の生き物が何匹も動き回っていた。十数匹もの大ネズミたちがいるその場所はとくに賑やかで、チャスカは、長い毛球の生き物が足元でころころ転がるのを、頬杖をつきながら、独り微笑んで眺めていた。
――「食べ物」じゃなければよかったのに。
チャスカは、足元にいた一匹のクイをつまみ上げた。チャスカは、それらの毛球の一匹にさえ、名前をつけることはしなかった。
「おまえでしょう。私のお腹の中にいたのは」
チャスカにつまみ上げられた大ネズミは、小さな両手に抱えていたリャマの糞を床に転がして、残った後ろ足でせわしく宙を掻きながらしきりに鼻をひくひくとさせていた。野イチゴのような不安げな目がチャスカを見ていた。チャスカは自分の鼻をクイの鼻先に押しつけると、ほかの仲間たちのいる地面に放してやった。
得体の知れない、あのなんだかよくわからないものは、まだお腹の中に残っていた。
――また、さっきのクイがお腹の中で暴れたら。
一頭の黒リャマが、クイの群れの合間を上手にぬって、上下の歯を交互に噛み合わせながらゆっくりと近づいてくるのが見えた。
リャマは、その優しげな顔つきに似合わず、子供一人くらいの荷物なら背に乗せて、険しいアンデスの山道を何時間も歩くことができた。身体を覆っている長い毛は毛糸の原料になり、その糞でさえも「サキア」として燃料にされた。リャマは、アンデスで暮らす人間たちにとっては欠かせない存在のひとつだった。

……七年前の朝。
母リャマの鳴く声を聴いた幼いチャスカは、まだ太陽の昇っていない夜道を兄と一緒に飛び出した。
藍色の空にひとつ、明るい星が残っていた。チャスカが厩に入ると、母リャマのお産を手伝っていた父と母のほかに、近所から駆けつけた親戚の男たちが、まだ生まれたばかりの子リャマを無言で取り巻いているのが見えた。
子リャマは二頭いた。
一頭は母親と同じ白い毛皮の子、もう一頭は、夜のように真っ黒だった。
「ジャガーみたいだ」男たちのだれかがつぶやいた。黒リャマは、思いのほか不気味なものに感じられた。
星型の棍棒を握った父の腕に力が込められるのを見たチャスカは、とっさに駆け出して父親の脇腹に思いっきり体当たりを食らわせた。普段穏やかなチャスカの父は、それまで彼女が見たことのないような憎悪に満ちた目で、生まれたばかりの黒リャマにしがみついている小さな娘を見据えた。
子リャマの身体から力ずくで娘を引きはがしにかかったとき、彼の息子に手を引かれた老婆が、サキアの青い影に揺らされて入ってきた。
「なるほど、こりゃ本当に真っ黒だね」老婆は言った。
「邪魔しないでください、母さん。スーパイ（悪霊）の子かもしれないんだ」棍棒を握り締めたチャスカの父は吐き捨てるように言った。
「どうしてそういうことを言うんだろうね、この子は。このリャマは双子だ。双子が神さまの遣いだってことは、おまえもよく知ってるだろう。あんたたちはそれを殺そうっていうのかい」
老婆の言葉を聞き、チャスカの父をはじめ大人たちは、なにも言えずに黙っていた。それから納得したように、ひとりずつ静かに厩から出て行った。
「大人たちは行ったよ。さ、チャスカ。お母さんのお乳を吸わせておやり」
老婆は、父親たちが帰って行ったことも知らずに、まだリャマの子にしがみついている小さな孫娘の背中を優しくなでた。
チャスカが離れると、生まれたばかりの子リャマはもう立ち上がって、母親の乳を先を争って吸いはじめた。
「この子たちに名前を付けてやらないとね、チャスカ」
「それなら、もう決めてあるわ」チャスカは、厩の外に見える空を指差して言った。「黒リャマはチャコ。白リャマは妹のチュンク。私と同じ、あのチャスコ・コイユル（明けの明星）の名前よ」
「そうかい」老婆は微笑んだ。
星の代わりに東の地面から昇ってきた太陽が、生まれたばかりの黒リャマの子と、涙ににじんだ少女の目をオレンジ色に輝かせた。

……七年後の今、厩にいるのは黒リャマだけで、母リャマと妹リャマの姿はなかった。
日だまりに目を閉じると、黒リャマの長い舌がチャスカの頬を舐め上げるのがわかった。チャスカはされるがままになっていた。そうされることに少しもいやな気はしなかった。ふと、髪の毛が丸ごと前に持っていかれるような強い衝撃を感じ、チャスカははっとした。
――しまった。
気づいたときには手遅れだった。チャスカの自慢の黒髪の一部が、石臼のようなリャマの歯で一列に噛みちぎられていた。
「やったわね、チャコ！」なくなった前髪をつまんだチャスカは悲鳴を上げた。「なんてことをするの。まだ髪結いだって終わっていないのよ。この髪の毛がないと私は大人になれないの。わかる？」
黒リャマのチャコは、返事の代わりに臭い「げっぷ」をした。
「わかるわけないわよね。リャマのおまえに」チャスカは溜息をついた。「またひとつ、お母さんに話さなきゃならないことが増えちゃったじゃないの」

まもなくして畑から戻ってきた母に先ほどのことを話すと、母親のミアマは大声を上げた。だが、母親が驚いたのは、なくなった娘の前髪ではなく、「あの木」の下で襲われたという腹痛のほうだった。
――いつ？
――どこで？
――どんなふうに？
堰を切ったようにつぎつぎと質問を浴びせかけてくる母親に、チャスカはいちいちと答えなければならなかった。チャスカのお腹に、あの忘れかけていた痛みがまた蘇ってきた。
「お母さんに内緒で出ていくつもりはなかったの。途中で、おばあさんに会ったわ。でも、私はなにも言わなかった。だって、大丈夫だったんだもの」
ミアマは黙って娘を見つめた。
「……なんだかよくわからないけど、いきなりお腹が痛くなってきて。大きなクイが何匹もお腹の中を走り回っているみたいだった」チャスカは震えていた。
「おまえはとうとう……」娘の肩を抱きしめたミアマは、一息置いてから静かに告げた。「チャスカ。おまえは大人になったんだ。その血は、おまえが神さまから頂いた『しるし』なんだよ。おまえにはまだなにも話していなかったけどね。今晩から、三日の断食をしなくちゃならないけど、それが終わったらおまえにも新しい名前がもらえるよ。……おめでとう」
チャスカは、母親の目に涙がたまっているのを見つけた。
チャスカのお腹の中にいたクイは、もうどこかへと逃げ去ってしまったあとだった。

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